LOGIN結衣は、ずらりと並んだ楽器を見渡しながら、冷ややかな、けれど確かな熱を帯びた声で言った。「最高のものを見せてちょうだい。……ええ、金額は気にしないで」 数十分後。結衣の目の前のベルベットの台座に置かれたのは、製造から半世紀以上が経過しているという、美しい飴色をしたヴィンテージギターだった。 店主が白い手袋をはめた手で弦を軽く弾くと、店内の空気を震わせるような、深く豊かな音が鳴り響いた。「素晴らしいわ」 結衣は、黒いクレジットカードを店主のトレイに滑らせた。三百万円。 高校生が持ち歩くカードの限度額を遥かに超えているが、天道家の令嬢である結衣のカードには、実質的な上限など存在しない。 店主が手際よくギターを堅牢なハードケースに納め、結衣に手渡す。革張りのケースの取っ手を握った瞬間、ずっしりとした重みが腕に伝わってきた。(……レイ、喜んでくれるかしら) 結衣の心臓が、期待でトクトクと跳ねる。レイがケースを開けた時の、驚きと喜びに満ちた顔が見たい。 レイの透明な歌声が、最高級の楽器と重なり合った時、どれほど美しい奇跡が生まれるのか。想像するだけで、足取りが軽くなるのを感じた。 店を出ると、鈴木がすぐにケースを受け取ろうと手を伸ばした。「いいえ、私が持つわ。……車を出して。駅前の高架下まで」「しかし、あのような場所にまた行かれるのは……」「行くのよ。今すぐに」 結衣の鋭い一瞥に、鈴木は口を噤み、セダンのドアを開けた。 車の後部座席にギターケースを丁寧に置き、結衣は滑らかな革の表面を指先でなぞった。 窓の外の景色が流れていく。胸の奥で渦巻く高揚感が、結衣の呼吸を浅く、速くしていた。 ◇ 夕闇が完全に空を覆い尽くし、高架下にはいつもの薄暗いオレンジ色の街灯が灯っていた。 電車の通過音が轟く中、結衣は重いギターケースを両手で抱え、足早にアーチの奥へと進んだ。 柱の陰。レイは昨日と同じパイプ椅子に座り、新しい
鋭い破裂音が高架下のコンクリートの壁に反響し、結衣の鼓膜を不快に打った。 バチンッ。 レイの指先で軽やかに弾かれていたアコースティックギターの弦が、一瞬にして弾け飛んだ。空気を切り裂くような硬い音。結衣は思わず肩を跳ねさせ、持っていた缶コーヒーを取り落としそうになる。「あっ……」 レイの声が小さく漏れた。 左手の指先から、一筋の赤い血が滲み出ている。切れたスチール弦の先端が、演奏中の無防備な指の腹を浅く裂いたのだ。「レイ……! 血が……」 結衣は弾かれたように立ち上がり、レイの怪我をした指に手を伸ばした。しかしレイは、慌てる結衣を制するように、無事な右手でひらひらと手を振った。「大丈夫、大丈夫。こんなの、よくあることだから」 レイは血の滲む指先を無造作に口に含み、ペッと吐き出すと、そのままジーンズの腿で拭った。「安い弦を使ってるからさ。すぐ錆びて、こうやって切れちゃうんだよね。……ごめん、いいところだったのに」 レイは困ったように笑い、切れて丸まった弦の残骸を指で弾いた。 レイが抱えるギターは、結衣の目から見ても限界に近いほどボロボロだった。ボディの表面には無数の傷が走り、塗装は剥げ、ピックガードの周辺は木肌が黒ずんで露出している。 結衣は、レイが血の滲む指で古い楽器を撫でる姿を見て、胸の奥がチクッと痛むのを感じた。 レイの透明で美しい声には、薄汚れた、いつでも持ち主を傷つけるような楽器はふさわしくない。もっとレイを輝かせる、完璧な道具があるはずだ。「……新しい弦、買わないの?」「んー、今日はもう持ち合わせがないや。また明日、バイト代が入ったら張り替えるよ」 レイはギターをケースにしまいながら、事もなげに言った。 持ち合わせがない。言葉の響きが、結衣の耳にはひどく異質なものとして聞こえた。 天道家において「お金がない」という概念は存在しない。欲しいものは何でも手に入るし、むしろ望む前に最高のものが
今まで、誰も結衣にそんな言葉を投げかけたことはなかった。 周囲の人間は皆、結衣を「完璧な令嬢」として扱い、遠くから羨望と嫉妬の目を向けるだけだった。 父・征也でさえも、結衣の中に莉子の面影を見いだし、彼女の本当の寂しさには気づいてくれなかった。 なのに、この少年は。 出会って間もない、素性も知らないこの少年だけが、結衣を縛り付けている見えない鎖の存在を、いとも簡単に見抜いてしまった。「……窮屈、か」 結衣は、自嘲するように小さく笑った。「そうかもしれない。……私は、自分の意志で外を歩くことさえ、許されないから」「厳しい家なんだね」「厳しい……ええ、そうね。息が詰まるくらいに」 結衣は、熱い缶コーヒーを胸の前に抱きしめた。「私の家は、時間が止まっているの。……十二年前から、ずっと。そこには、誰も私を見てくれる人がいない。……私に触れて、熱を与えてくれる人が、誰もいない」 結衣の口から、無意識のうちに、隠していたはずの孤独が零れ落ちていた。 自分がこんなにも脆い言葉を他人に吐露するなんて、思いもしなかった。 レイは何も言わず、ただ静かに結衣の言葉を聞いていた。 彼の琥珀色の瞳は、結衣の痛みをそのまま受け止めるように、どこまでも深く、澄んでいた。 やがて、レイはそっと、結衣の頭に手を乗せた。「……え?」 結衣が顔を上げると、レイは優しく、結衣の髪を撫でた。「辛かったね、お姫様」 彼の大きな手が、結衣の髪をゆっくりとすく。 その指のタコの硬い感触が、髪越しに頭皮に伝わってくる。 熱い。 彼の手のひらから伝わる熱が、結衣の冷え切った心を、一瞬にして燃え上がらせた。「……っ」 結衣の目から、不意に一粒の涙が零れ落ちた。 自分でも気づかないうちに、頬を伝う熱い雫。
「……今日は、誰も聞いていないのね」 結衣が周囲を見渡して言うと、レイはギターの弦を指の腹でなぞりながら苦笑した。「僕の歌なんて、足を止めて聴くほどのものじゃないからね。みんな、急いで自分の帰る場所に帰っていくんだよ」「私は、好きよ」 結衣の口から、自分でも驚くほど素直な言葉がこぼれた。「あなたの声、すごく……真っ直ぐで。余計なものが何もなくて」 レイはギターを弾く手を止め、結衣の顔をじっと見つめた。 その琥珀色の瞳の奥に、少しだけ戸惑いのような色が浮かぶ。「……そっか。ありがとう」 レイは照れくさそうに前髪を掻き乱すと、「ちょっと待ってて」と言って立ち上がった。 彼は高架下のすぐ外にある自動販売機へ走り、小銭を入れてボタンを押した。 ガコン、という重い音が二回響く。 戻ってきた彼の手には、二本の小さな缶コーヒーが握られていた。「ほら、お礼」 差し出された赤い缶。 結衣は両手でそれを受け取った。「……熱っ」 思わず声が出るほど、缶の表面は熱を持っていた。 天道邸で出される、適温に冷まされた紅茶や、完璧な温度で抽出されたコーヒーとは全く違う、火傷しそうなほどの熱さ。「あはは、ごめん。ここの自販機、やたら熱いんだよね」 レイは自分の缶のプルタブを、カシュッという軽快な音を立てて開けた。 結衣もそれに倣い、プルタブに指をかける。 しかし、硬くてなかなか開かない。「貸して」 レイが横から手を伸ばし、結衣の持っている缶に自分の手を重ねた。「……っ」 結衣の指に、レイの指が触れる。 その瞬間、結衣はビクッと体を硬直させた。 彼の指先は、驚くほど硬かった。 ギターの弦を押し込み続けることで分厚く角質化した、指先のタコ。 大理石のように滑らかな結衣の指とは対極にある、ザラザラとした、生
ネオンサインが瞬き始め、家路を急ぐ人々の波が結衣の身体をぶつかるようにして通り過ぎていく。 排気ガスと、どこかの飲食店の油の匂い。 結衣は鞄を胸に抱え、あの高架下へと向かって小走りで進んだ。 コンクリートのアーチの下に足を踏み入れる。 薄暗いオレンジ色の街灯。 電車の通過音が響く中、その奥から、かすかに弦を弾く音が聞こえてきた。 ジャラン。 結衣の足が、ピタリと止まる。 いた。 あの日と同じ、壁に背を預け、安物のパイプ椅子に腰掛けてギターを抱える影。 今日はフードを被っておらず、少し長めの癖のある前髪が、彼の白い額を隠すように揺れていた。 細身のダメージジーンズに、色褪せたチェックのシャツ。 彼の指先が、ギターのネックを滑るように移動し、柔らかいアルペジオを奏でている。 結衣は、そっと息を吐き出した。 彼が存在しているという事実だけで、強張っていた肩の力が抜け、肺の奥まで酸素が行き渡るような気がした。 レイは、ポロロンと最後のコードを鳴らすと、顔を上げた。 琥珀色の瞳が、柱の陰に立つ結衣を捉える。 彼の目が少しだけ見開かれ、やがて、春の陽だまりのように柔らかく細められた。「……ユイ?」 その透明な声に名前を呼ばれた瞬間、結衣の心臓がトクン、と大きく跳ねた。「……また、雨宿り?」 レイはギターを膝の上に置き、いたずらっぽく笑った。 外には雨など一滴も降っていないのに。 結衣は顔が熱くなるのを感じながら、ゆっくりと彼に近づいた。「……これを、返しに来たの」 結衣は鞄の中から、あの灰色のパーカーを取り出し、両手で差し出した。 綺麗にクリーニングに出すことも考えたが、そうすれば彼の匂いが完全に消えてしまう。結局、結衣は自分で洗面器に水を張り、丁寧に手洗いし、アイロンをかけていた。 レイは少し驚いたような顔をして、パーカーを受け取った。「わざわ
天道邸の自室。 結衣は、クローゼットの奥深くに隠していたあの灰色のパーカーを顔に押し当て、深く息を吸い込んだ。 あの日から三日が経っていた。 柔軟剤と微かなタバコ、そして雨の匂いが混ざり合った、あの強烈な「彼」の匂い。 それは、時間の経過とともに残酷なほど薄れつつある。 匂いが薄れるたびに、結衣の胸の奥で、じりじりとした焦燥感が焦げ付くように広がっていく。 もう一度、あの熱に触れたい。 あの透明な声で、自分の名前を――「ユイ」と呼ばれたい。 結衣はパーカーを丁寧に畳み、学校指定の革鞄の一番底に押し込んだ。 そして、鏡の前で完璧な「天道家の令嬢」の仮面を被り直す。 一本の乱れもない黒髪、隙のない制服の着こなし、感情を読み取らせない冷ややかな微笑み。 一階へ降りると、大理石の床に黒いローファーの硬い音が響いた。「おはようございます、お嬢様」 SPの鈴木が、いつもと変わらぬ硬い表情で一礼する。「おはよう。……行きましょう」 結衣は短く応え、迎えの黒塗りのセダンへと乗り込んだ。 車内の、完璧に調整された無臭の空間が、息苦しい。 学校での時間は、砂を噛むように無味乾燥だった。 周囲の生徒たちの浮ついた会話も、教師の単調な声も、結衣の耳を素通りしていく。 彼女の脳裏を満たしているのは、あの薄暗い高架下で響いていた、ギターの硬い音色だけだった。 放課後。 結衣は校門を出ると、待機していた鈴木に向かって、少しだけ歩調を緩めた。「鈴木」「はい、お嬢様」「今日は、図書室で少し調べ物をしたいの。車は一時間後に回してちょうだい」 声が震えないよう、細心の注意を払って紡いだ言葉。「……承知いたしました。では、図書室の前で待機しております」「いいえ」 結衣は、静かに、けれど強い視線で鈴木を射抜いた。「調べ物は集中したいの。あなたの視線があると、気が散るわ」「しかし、社長から
嬉しさと、悲しさと、どうしようもない絶望がない交ぜになって、感情が制御できない。 この子は、生まれてきていいの? こんな状況で。 父親は私を騙した詐欺師で、母親は狂人のコレクションルームに監禁されている。祝福なんてされるはずがない。「……莉子ちゃん? まだかい?」 ドアの向こうから、蒼くんの声がした。楽しげな、弾むような声。まるで、結果が出るのを心待ちにしているかのような。「……出ます」 私は涙を拭い、深呼吸をした。 隠すことはできない。彼は最初か
窓ひとつない密閉された部屋に、重たく湿った衣擦れの音が響く。 歩くたびに足元でシュ、シュ、と鳴る乾いた摩擦音は、まるで降り積もった枯れ葉の上を踏みしめているようで、背筋が寒くなった。「……うん、やっぱり素敵だよ。莉子ちゃん」 神宮寺蒼が、ほう、と熱っぽい息を吐き出す。 眼鏡の奥で細められた瞳は、私を見ているようでいて、どこか透き通って焦点が合っていない。彼が見ているのは生身の私ではなく、自分が丹精込めて作り上げた『作品』としての私なのだと肌で感じる。 壁に掛けられた鏡の中に、見知らぬ女が映っていた。
彼は私を愛しているんじゃない。 彼は「月島莉子」という偶像を崇拝し、その欠片を収集することに執着しているだけだ。 さらに奥。 部屋の一番奥まった場所に、祭壇のようなスペースがあった。 白いテーブルの上に、マネキンの首が置かれている。 そこには、艶やかな黒髪のカツラが被せられていた。 いいえ、違う。 近づいてよく見ると、それはカツラではなかった。 一本一本、丁寧に植え込まれた、本物の人毛だ。 長さも、色も、質感も、私の髪そのもの。『莉子の髪 収集率80%』
「……なに?」「いや、なんでもないよ。……可哀想に。ストレスが胃に来ているんだね」 蒼くんはポケットからハンカチを取り出し、私の口元を拭おうとした。その手つきは優しかったけれど、どこか汚いものを扱うような慎重さがあった。「少し、楽になるものを待ってこよう。……待っていて」 彼は足早に部屋を出て行った。 私は床に突っ伏したまま、荒い息を繰り返した。頭がぐわんぐわんする。視界の端が暗くなるような貧血。 こんなに体調が悪いなんて。もし重い病