Se connecterこの手は、父と同じ手だ。 愛するものを守る、助けるという大義名分を掲げながら、その実、相手の意思を無視し、自分の支配下に置かなければ気が済まない、呪われた手。 自分の中に脈々と流れ続けている『天道の血』が、初めて明確な形を持って、彼自身の理性をあざ笑っていた。 彼女を大切にしたいという純粋な初恋すらも、この血は無意識のうちに「支配」という傲慢な形に変換して出力してしまう。 自分は、本当に、あの男の血を引く『怪物』なのだ。「……ごめん」 陽向の声は、先ほどの熱が嘘のように、掠れ、無惨に震えていた。 結月は、壁に背を張り付けたまま、手首で涙を拭い、荒い呼吸を繰り返している。 その姿を見るのが、自分の存在が彼女をそこまで追い詰めてしまったという事実が、陽向の胸を八つ裂きにするように痛めつけた。「俺は……」 陽向は、それ以上言葉を続けることができなかった。 何を言っても、それは結局、自分のための言い訳にしかならない。 これ以上ここにいれば、彼女をもっと傷つけてしまう。 自分の内側にあるこの黒い衝動が、彼女を完全に壊してしまう前に、ここから立ち去らなければならない。 陽向は、ギュッと目を閉じ、血が滲むほど奥歯を噛み締めた。 鼻の奥に、彼女の涙の匂いと、初夏の湿った土の匂いが混ざってツンと刺さる。「……もう、二度と君に近づかない。約束する」 その言葉は、自分自身に枷をはめるための、痛みを伴う誓いだった。 陽向は、目を開けると、結月に背を向けた。 そして、振り返ることなく、初夏の陽射しが降り注ぐキャンパスの出口へと向かって歩き出した。 背後で、結月の微かな嗚咽が聞こえるような気がした。 その音が、陽向の背中を無数の針のように刺し貫く。 スニーカーの底が、アスファルトを重く叩く。 ポケットの中の、あのチョコレートの重みが、今はただ、自分の浅はかさと滑稽さを嘲笑うかのように、歩くたびに鈍く太腿にぶつかり続けていた。
彼女の後ろにはもう、逃げ場はなかった。「……っ」 陽向の胸の奥で、どうしようもない苛立ちと、焦りが渦巻く。 なぜ分かってくれないんだ。 俺は、君を傷つけるつもりなんて一ミリもないのに。 ただ、君のあの柔らかい笑顔を、もう一度見たかっただけなのに。 言葉が通じないもどかしさが、陽向の青年らしい幼さを暴走させる。「俺の話を、聞いてくれよ!」 陽向は、彼女に自分の切実さを伝えたくて、無意識のうちにさらに一歩、大きく踏み込んでいた。 長身の彼の影が、壁際に追い詰められた結月の小さな身体を完全に覆い隠す。 彼女の逃げ場を塞ぐようにして、陽向は右手を伸ばした。 触れた瞬間。 ——熱い。 薄いカーディガン越しに伝わってくる、彼女の肩の体温。 しかし、それは雨の日に図書館で指先が触れ合った時の、あの心地よい温もりとは全く異なっていた。 ガチガチに強張りきった筋肉の感触。 陽向の大きな手が肩に触れた瞬間、結月はビクッと体を硬直させ、大きく息を呑んだ。「や、やめて……っ、離して……!」 結月が、陽向の手から逃れようと必死に肩を捩った。 その懸命な抵抗が、陽向の掌に生々しく伝わってくる。 彼女の目から、ついに恐怖の涙がこぼれ落ち、眼鏡のレンズの奥で光った。 その涙を見た瞬間。 陽向の脳裏に、ある光景が鮮烈に蘇った。 ——静まり返った天道邸の廊下で、母・莉子の手首を、痛いほどの力で握りしめていた父の横顔。 ——「どこにも行くな」と告げる、あの重苦しいほどに濃密な声音。 ——父の溢れんばかりの溺愛を浴びながら、時折、母が浮かべていた、困ったような、どこか息苦しそうな微かな溜息。 父が母を傷つけようとしていたわけではない。それは陽向もわかっていた。父は、母なしでは生きていけないほどに彼女を愛し、慈しんで
周囲の喧騒が遠のき、二人の急ぎ足の靴音と、荒い息遣いだけが響く空間。「待って、朝比奈さん。少しでいいから!」 陽向は、彼女の数メートル後ろまで迫り、焦燥感に駆られて声を張り上げた。 結月が息を呑み、急ブレーキをかけるように立ち止まった。 彼女の靴底が、アスファルトをザリッと擦る。 彼女は振り返ることなく、胸に抱えたバインダーを盾にするように強く握りしめ、肩を小刻みに震わせていた。 陽向は、彼女の背中から二歩離れた位置で立ち止まった。 これ以上近づけば、彼女をさらに怯えさせてしまうという理性が、辛うじて働いていた。「……逃げないでくれ。昨日のこと、謝りたくて」 陽向の声は、少し上擦っていた。 自分でも情けないと思うほど、懇願するような響きが混じっている。 結月は、ゆっくりと、恐る恐るこちらを振り返った。 その顔は青白く、眼鏡の奥の瞳は不安に揺れている。「……謝るって、何を……ですか」「やりすぎた。……君を助けようとして、つい頭に血が上って……あんな、相手を徹底的に追い詰めるような脅し方をして。……怖がらせて、ごめん」 陽向は、深く頭を下げた。 誠意を見せれば、きっと伝わる。自分が本当に彼女を案じていたのだと、分かってくれるはずだ。 しかし、結月の口からこぼれたのは、陽向の期待とは全く違う言葉だった。「……頭に血が上って、あんなことが、すらすらと言えるの?」 細く、かすれた声。 陽向はハッとして顔を上げた。 結月は、バインダーを抱える腕にさらに力を込め、後ずさりするように一歩引いた。「天道くん……昨日のあの人たちを脅している時、ちっとも怒っているようには見えなかった。……すごく冷たい目で、相手がどうすれば一番傷つくか、どうすれば一番絶望するか、完全に分かっ
机の上に置かれたノートパソコンの黒い画面に、自分の強張った顔が映り込んでいる。 講義開始の五分前。 重い木製のドアが開き、見覚えのあるネイビーのカーディガンを着た小柄な影が現れた。 朝比奈結月だった。 陽向の背筋が、無意識にピンと伸びる。 彼女は、教室に入るとすぐに、怯えた小動物のように周囲へ視線を巡らせた。 そして、後方の席に座る陽向の姿を見つけた瞬間。 ビクッと、その細い肩が大きく跳ねた。 彼女は弾かれたように視線を逸らし、陽向の席から最も離れた、最前列の隅の席へと小走りで向かうと、背中を丸めるようにして座り込んだ。 陽向の胸の奥で、ギリッ、と不快な音が鳴った。 彼女が自分を明確に『避けている』という事実が、物理的な痛みとなって臓腑を抉る。(……なんで、そんなに怯えるんだ) みぞおちのあたりが、熱く焼けるように痛む。 それは怒りではなく、拒絶されたことに対する純粋な傷つきだった。 あんなならず者たちに絡まれていた時、助けに入ったのは俺だけだった。 雨の日、傘に入れて駅まで送った時は、あんなに柔らかく笑ってくれていたじゃないか。 なのに、なぜそんな、得体の知れない怪物を見るような目で俺を見るんだ。 陽向の掌に、じわりと嫌な汗が滲む。 講義が始まっても、老教授の単調な声は一言も頭に入らなかった。 陽向の視線は、何十列も前方に座る結月の、小さな背中だけに固定されていた。 彼女の肩が、時折不自然に強張るのが見える。 背後からの自分の視線に気づき、硬直しているのだ。 彼女にそんな思いをさせたいわけじゃない。ただ、昨日のことを謝って、誤解を解きたいだけなのに。 言葉を交わせない距離が、もどかしくてたまらない。 陽向は、手元のボールペンを、折れるほど強く握りしめた。 プラスチックの軸がミシミシと軋む音が、自分の心臓の音のように大きく聞こえた。 ◇ 講義終了のベルが鳴った瞬間、結月は誰よりも早く席を立った。
薄っぺらいカーテンの隙間から、白々しい朝の光が容赦なく差し込んでいた。 陽向は、硬いフローリングの上に直に敷いた布団の中で、浅く濁った眠りから強引に引き剥がされた。 枕元のスマートフォンが、無機質なアラーム音を鳴らし続けている。手探りで画面を叩き、音を止める。 部屋の中には、昨夜干したままの生乾きの衣服の匂いと、微かなカビの臭いが淀んでいた。 頭の芯が、鉛を流し込まれたように鈍く重い。 昨夜、あの渡り廊下で結月が自分に向けていた、怯えきった瞳。 それが何度も夢に現れ、その度に自分の手が彼女を暗闇へ突き飛ばすような錯覚に苛まれて、まともに眠ることができなかった。 陽向はのろのろと身を起こし、狭いユニットバスへと向かった。 ひび割れた洗面台の前に立つ。 蛇口を捻ると、古びた配管がガタガタと鳴り、冷たい水が勢いよく吐き出された。 両手で水を掬い、顔に何度も叩きつける。 肌を刺すような冷たさが、ようやく意識の輪郭を少しだけはっきりさせた。 前髪からポタポタと水滴を落としながら、陽向は顔を上げ、鏡に映る自分を見つめた。 目の下には薄く青い隈が張り付き、ひび割れた唇からは血の気が失せている。 長く、形の良い眉。鋭く通った鼻筋。 そして、相手の奥底まで見透かすような、色素の薄い瞳。 どこをどう切り取っても、あの父・天道征也の血を濃く受け継いでいると嫌でも自覚させられる顔立ちだった。(……俺は、間違ったことはしていない) 洗面台の縁を両手で強く握りしめながら、陽向は心の中で必死に言い訳を反芻した。 木崎たちから彼女を守るためには、あのように有無を言わさぬ力でねじ伏せるしかなかった。口先だけで窘めても、彼らのような人間はすぐにまた別の形で彼女に危害を加える。それを完全に断ち切るための、一番確実な手段を選んだだけだ。 俺は、父さんのように自分の欲望のためだけに力を振るったわけじゃない。 彼女を、助けたかっただけだ。 ちゃんと説明すれば、きっと分かってくれる。俺があの男たちと同じような人間では
ザリッ。 結月の靴底が、アスファルトを擦って、さらに後ずさる音が鳴った。 彼女の両腕は、胸のバインダーを抱きしめるのではなく、自分自身を守るように固く組まれている。 小刻みに震える肩。 浅く、ひきつるような呼吸。「こ、こないで……っ」 結月の唇から、掠れた悲鳴のような声が漏れた。 その言葉は、先ほど彼女が、あのならず者の木崎に向けた拒絶の声よりも、はるかに切実で、深い絶望を含んでいた。 風が吹き抜け、彼女から漂ってくる匂いが、陽向の鼻腔を打った。 あの優しかった石鹸の香りは、今はもう感じられない。 極限の緊張状態から発せられる、鋭く、痛々しい恐怖の匂い。 陽向は、伸ばしかけていた自分の右手を、空中でピタリと止めた。 その手は、先ほどまでスマートフォンを突きつけ、相手の未来を盾にして物理的な暴力以上の恐怖でねじ伏せていた腕だ。(……俺は) 陽向の脳裏に、あの日、執務室で自分を冷徹に見下ろしていた父・征也の姿が、鮮烈なフラッシュバックとなって蘇った。 相手を守るためだと言い訳をして。 自分の力を誇示し、相手の退路を断ち、圧倒的な恐怖で支配する。 自分が先ほど木崎に対して行った行為は、まさに父が周囲の人間に対して行ってきた「呪い」の再生産に他ならなかったのだ。「……違う。俺は……」 陽向の喉から、掠れた声がこぼれる。 けれど、結月の瞳には、陽向の弁解など届いていなかった。 彼女の目には、陽向という不器用な青年ではなく、他者の尊厳を平然と握りつぶす、冷酷な支配者の姿しか映っていない。 彼女を、守りたかっただけなのに。 彼女の、あの柔らかな笑顔を、取り戻したかっただけなのに。 陽向の視界が、ぐらりと揺れた。 ポケットの中にある、あの安価なチョコレートの重みが、今は焼け焦げた鉛のように熱く、重く感じられる。 結月は、陽向から視線を外さないまま、さらに数歩
◇ 翌日。 重く垂れ込めた雲の隙間から、色のない光が差し込んでいた。 雨は止んでいたけれど、湿気を帯びた空気は肌にまとわりつくようで、屋敷全体が巨大な水槽の底に沈んでいるような息苦しさがある。 私は身支度を整え、足音を忍ばせて玄関ホールへと降りた。 姿見の前で立ち止まり、ひきつった自分の顔を見つめる。 睡眠不足で透き通るほど青ざめた肌も、丹念にメイクを重ねれば、平気なふりができる。嘘をつくための仮面だ。 鏡の中の自分が、無意識のうちに首元へと指を這わせていた。 鎖骨のくぼみに、硬質な重み
◇ 今夜の会場は、都内の一等地に佇む歴史ある会員制倶楽部だった。 石造りの重厚な外観。エントランスに敷かれた深紅のカーペット。 車寄せには見たこともないような高級車が列をなし、そこから吐き出される紳士淑女たちが、光の洪水の中へと吸い込まれていく。 政財界の有力者たちが集う、年に一度の晩餐会。 かつて月島家が栄えていた頃、父に連れられて何度か足を踏み入れたことのある世界だ。 けれど今の私は、月島家の令嬢ではない。 天道征也という、新興の帝王が連れてきた「戦利品」として、ここに立っている。
痛い。けれど、それ以上に、肌が触れ合う部分がひどく熱い。 彼が私の中に刻み込んでくるのは、快い痺れを伴った、逃げられない支配そのものだった。 突き上げられるたびに、私の意識はバラバラに砕け、彼の放つ体臭と、濡れた肌が擦れ合う生々しい音の中に溶けていく。 薄目を開けて征也の顔を盗み見ると、そこには望みを叶えた男の、勝ち誇ったような笑顔などはどこにもなかった。 眉間に深い皺を寄せ、何かに耐えるように、あるいは何かをひどく呪っているかのように、苦しげに歪んだ表情をしている。 汗に濡れた前髪が額に張り付き、その隙間から覗く瞳は、射殺す
エリカは蛇のように細い目で私を上から下まで執拗にねめ回すと、わざとらしく口元を押さえて吹き出した。 「まあ、征也様、冗談でしょう? そんな薄汚れたものを、わざわざこんな格式高いお店に連れてくるなんて。お店の絨毯が腐ってしまいそうですわ」 エリカの言葉は、鋭い刃物となって私の耳を切り裂いた。店員たちの視線が、さらに一段と冷たく、鋭くなったように肌に刺さる。 私は反射的に、ドレスの上から自分の腕を抱き、身を縮めるしかなかった。 エリカは隠そうともしない嘲笑を浮かべたまま、すぐ側まで歩み寄ってくる。彼女が纏っているきつい香水の匂いが鼻を突き、胃の奥からこみ上げるような吐き気が私を襲っ