تسجيل الدخول部屋に残された私は、その場に崩れ落ちた。
床に散乱した書類の海の中で、膝を抱えて小さくうずくまる。 これで、よかったはずだ。 彼がひた隠しにしてきた罪を突きつけ、拒絶し、言葉の刃でその心を切り裂いてやった。父を死に追いやった無念を、ほんの少しは晴らせたはずだ。 それなのに。 どうして、こんなにも胸が痛いのだろう。 最後に見た、征也の目。 『気持ち悪いか』と呟いた時の、あの一瞬の表情。 まるで、迷子が親に見捨てられた時のような、どうしようもない孤独と恐怖が滲んでいたあの目が、脳裏から離れない。(……騙されないで。あれは演技よ) 自分自身に言い聞かせるように、奥歯を強く噛みしめる。 彼は父を追い詰め、全てを奪い去った略奪者だ。それだけは、決して揺るがない事実なのだから。 蒼くんがくれた証拠は嘘をつかない。 でも、もし。もし、まだ私の知らない真実があったとしたら? 彼はなぜ、あんなにも悲しそうな顔をしたの? 頭が割れそうだ。 私は書類の束をかき集め、ゴミ箱に叩き込んだ。見たくない。何もかも忘れてしまいたい。 ブブッ、と手元のスマートフォンが短く震え、思考を現実に引き戻した。 無機質な液晶画面に浮かび上がる『蒼くん』の文字。 まるで、この密室での出来事を壁の向こうから覗いていたかのような、絶妙すぎるタイミングだった。『見たかな? 辛かっただろう。……でも、これで君も目が覚めたはずだ』 メッセージの続きが表示される。『準備はいい? 来週、病院へ行くだろう? その時、迎えに行くよ。……あの悪魔の手から、君を救い出すために』 来週、病院。 なぜ蒼くんがそのことを知っているのか。今の私には、そんな疑問を持つ余裕さえなかった。 私は涙を拭い、スマホをぎゅっと握りしめる。 もう、迷いはない。断ち切らなければならない。 この冷たい檻のような屋敷を出る。 母を連れて、天◇ 廊下に出た征也は、ドアに背中を預けたまま、動けずにいた。 膝から力が抜け、ずるずると床へ崩れ落ちそうになるのを、歯を食いしばって必死で堪える。 左手が、小刻みに震えていた。 彼女に触れようとして、拒絶された手だ。 『気持ち悪い』『吐き気がする』 莉子の悲痛な叫びが、呪いのように鼓膜にへばりついて離れない。「……っ、ぐ……」 喉の奥から、乾いた呻きが漏れた。 痛い。 心臓を素手で鷲掴みにされ、握り潰されたようだった。 四年前。まだ何者でもなかった自分が、彼女の家の事情を知りながら、何もできずにただ指をくわえて見ているしかなかったあの日。自分の非力さを骨の髄まで思い知らされたあの時よりも、ずっと深く、致命的な傷だ。(……これでいい) 征也は、震える手で顔を覆った。 あそこで「俺じゃない」「神宮寺がやったんだ」と説明することはできた。 だが、今の俺にそれを証明する手立てはない。 神宮寺蒼は狡猾だ。自分の手を汚さず、すべての痕跡を綺麗に消し去り、俺になすりつけている。 今、莉子に真実を告げても、「往生際が悪い」「嘘つき」と罵られるだけだ。 それに、下手に神宮寺を刺激すれば、奴は何をするか分からない。莉子の身に、取り返しのつかない危険が及ぶかもしれない。 ならば、自分が泥を被り、悪役になればいい。 父の仇として憎まれ、軽蔑されても、彼女をこの手元に置いて守り抜く。 それが、不器用で愚かな今の自分にできる、唯一の償いであり、愛し方だ。「……嫌っていいぞ、莉子」 誰もいない薄暗い廊下で、彼は誰に聞かせるでもなく呟いた。「俺を殺したいほど憎んでくれ。……そうすれば、お前は俺から目を逸らせない」 歪んだ論理だとは分かっている。 でも、そうでもしなければ、心が粉々に砕けてしまいそうだった。 征也は壁に手をついて立ち
部屋に残された私は、その場に崩れ落ちた。 床に散乱した書類の海の中で、膝を抱えて小さくうずくまる。 これで、よかったはずだ。 彼がひた隠しにしてきた罪を突きつけ、拒絶し、言葉の刃でその心を切り裂いてやった。父を死に追いやった無念を、ほんの少しは晴らせたはずだ。 それなのに。 どうして、こんなにも胸が痛いのだろう。 最後に見た、征也の目。 『気持ち悪いか』と呟いた時の、あの一瞬の表情。 まるで、迷子が親に見捨てられた時のような、どうしようもない孤独と恐怖が滲んでいたあの目が、脳裏から離れない。(……騙されないで。あれは演技よ) 自分自身に言い聞かせるように、奥歯を強く噛みしめる。 彼は父を追い詰め、全てを奪い去った略奪者だ。それだけは、決して揺るがない事実なのだから。 蒼くんがくれた証拠は嘘をつかない。 でも、もし。もし、まだ私の知らない真実があったとしたら? 彼はなぜ、あんなにも悲しそうな顔をしたの? 頭が割れそうだ。 私は書類の束をかき集め、ゴミ箱に叩き込んだ。見たくない。何もかも忘れてしまいたい。 ブブッ、と手元のスマートフォンが短く震え、思考を現実に引き戻した。 無機質な液晶画面に浮かび上がる『蒼くん』の文字。 まるで、この密室での出来事を壁の向こうから覗いていたかのような、絶妙すぎるタイミングだった。『見たかな? 辛かっただろう。……でも、これで君も目が覚めたはずだ』 メッセージの続きが表示される。『準備はいい? 来週、病院へ行くだろう? その時、迎えに行くよ。……あの悪魔の手から、君を救い出すために』 来週、病院。 なぜ蒼くんがそのことを知っているのか。今の私には、そんな疑問を持つ余裕さえなかった。 私は涙を拭い、スマホをぎゅっと握りしめる。 もう、迷いはない。断ち切らなければならない。 この冷たい檻のような屋敷を出る。 母を連れて、天
不意をつかれた征也が、よろりと一歩後退る。 その隙に私はベッドの反対側へと逃げ、喉が裂けんばかりに叫んだ。「もう触らないで! 二度と、私に触れないで!」 金切り声が、広い部屋に反響する。「気持ち悪い! あなたの手も、声も、匂いも……全部! 吐き気がするのよ!」 自分の体を抱きしめ、二の腕に爪を立てた。 彼に触れられた感触を、皮膚ごと削ぎ落としてしまいたかった。「……っ」 征也の動きが、ぴたりと止まった。 彼は、見えない拳で殴りつけられたような顔をしていた。 いつも完璧な鉄面皮を張り付け、感情を殺していた彼の表情が、一瞬だけ、音を立てて崩れ落ちたように見えた。 漆黒の瞳の奥で揺れていた暗い炎が、ふっと消える。 代わりに残ったのは、魂が抜け落ちたような、底知れぬ虚無だった。 彼は自分の手を見つめた。 私を抱きしめようとして拒絶された、行き場のないその手を。 指先が、微かに震えている。「……そうか」 息の詰まるような沈黙の後、彼が絞り出した声は、ひどく掠れていて、まるで別人のようだった。「……気持ち悪いか」 それは問いかけではなかった。ただの、絶望的な確認。 彼はゆっくりと手を下ろし、強く拳を握りしめた。爪が掌に深く食い込み、関節が白く浮き上がるほどに。 彼が今、何を考えているのか。混乱した私の頭では理解できない。 ひどく傷ついているように見えるのは、私の見間違いだろうか。 父を殺した冷血漢が、たかが手に入れた女一人に拒絶されたくらいで、傷つくはずがないのだ。 きっと、自分の所有物が思い通りにならなくて苛立っているだけだ。そうに違いない。 征也は深く息を吸い込み、再び冷徹な仮面を被り直した。 私を見る目は、もう何の熱も帯びていない。 氷のように冷たく、そしてどこまでも遠い目。「いいだろう」 彼は、床に散らばった書
「……否定はしない」 永遠にも似た沈黙を破り、征也が言った。 感情の一切ない声だった。「え……?」「月島の債権を買い叩いて、会社をバラバラにしたのは俺だ。……結果として、お前の父親を追い詰め、死への引き金を引いたのも、俺かもしれない」 顔色ひとつ変えず、ただ事実だけを並べる。 そこには言い訳も、許しを請うような響きもない。「お前のためだった」とか、「仕方なかった」とか、私がどこかで期待していた言葉は、ついに一言も紡がれなかった。 視界がふらりと揺らぎ、足元の床が抜け落ちたような感覚に襲われる。 心のどこか片隅で、信じていたのだ。彼が「誤解だ」「俺じゃない」と必死に首を振り、震える私を抱きしめてくれることを。 けれど、彼は認めた。 私の父を殺したことを、真っ向から。「……どうして」 景色が歪み、熱い滴が頬を滑り落ちる。「どうしてそんな酷いことを……。私たちが、何をしたっていうの? ただ、隣の家に住んでいただけなのに……」「お前は何もしていない」 征也が一歩、こちらへ踏み出した。革靴が床を叩く硬質な音が、やけに大きく響く。「だが、お前の父親には力がなかった。経営者として生き残る器じゃなかったんだ。……俺が手を出さなくても、遅かれ早かれあの会社は潰れていた」「……っ!」 父を愚弄された怒りで、頭の中が真っ白になる。 私は弾かれたように立ち上がり、目の前の男の頬を張ろうと右手を振り上げた。 風を切った手のひらは、しかし、頬に届く寸前で止められた。 ガシッ。 万力のように強い力で、手首を掴まれている。 彼の手のひらから、焼けるような体温が流れ込んでくる。こんなに最低な男なのに、その熱に身体が反応してしまう自分が疎ましい。「離して! ……汚い
怒鳴るわけでもない。淡々とした、部下に指示を出す時のような声色。 それが余計に、彼の冷酷さを際立たせていた。 父の死に関わる書類を、まるでただの業務報告書のように扱う態度。「……嫌」 喉が張り付いて、声が擦れる。 それでも、睨みつける視線だけは逸らさない。「返さない。……これ、お父様の形見よ。あなたが奪った、お父様の命そのものじゃない」「形見だと?」 征也の眉が、わずかに動く。 彼は差し出した手を下ろすと、どさり、とベッドの端に腰を下ろした。 マットレスが大きく沈み込み、彼の体重が生々しく伝わってくる。 近い。 ムスクと煙草の混じった匂い。数時間前まで、安心できる香りだと思って肺いっぱいに吸い込んでいたそれが、今は腐った花のように鼻につく。「それは、ただのビジネスの記録だ。……いちいち感情を持ち込むな」「ビジネス……?」 頭の中で、何かが切れる音がした。「人を自殺に追い込んでおいて、それがビジネス? 会社を乗っ取って、バラバラに解体して……それがあなたの言う仕事なの?」 私はファイルを彼に向かって投げつけた。 バサリと紙束が散らばり、あの『清算完了』のメモが、征也の膝の上に舞い落ちる。「答えて! これがお父様への復讐だったんでしょう? 4年前の、私への腹いせに……私の家を潰そうと計画したんでしょう! 『清算』って、そういう意味なんでしょう!」 征也は膝の上のメモを拾い上げ、目を細めた。 その瞬間、彼の瞳にさざ波のような揺らぎが走ったのを、私は見逃さなかった。 図星なのだ。「……違う」 彼は短く否定した。けれど、その声にはいつもの傲慢な響きがない。「何が違うのよ! 証拠はあるの! 日付も、サインも、あなたの筆跡も……全部ここにあるじゃない!」
窓ガラスを叩く雨の音が、不快なリズムで鼓膜を揺らす。 キングサイズのベッドは一人には広すぎた。私はシーツの端で膝を抱え、ただじっとしている。 指先が冷たい。氷水に浸したあとのように感覚がないのに、胸の奥だけが嫌な熱さで燻っている。 目の前には、書斎の金庫から持ち出したファイルが散らばっていた。 『月島ホールディングス解体計画書』。 そして、見覚えのある筆跡で記された『復讐完了』という走り書き。 これ以上ないほど分かりやすい答えだった。 彼が私に向けてくれた甘い視線も、触れる指の熱も、すべてはこの瞬間のための伏線。 父から会社を奪い、死に追いやり、その娘を金で買って飼い殺しにする。 それが、天道征也という男の描いたシナリオ。「……っ、う……」 喉から、嗚咽ともため息ともつかない音が漏れる。 悔しい。 あんな男に心を許しそうになった自分が、どうしようもなく惨めで、許せない。 昨夜、このベッドで彼に抱かれながら感じた安らぎは、ただの錯覚だった。その甘さに目を眩ませ、父を殺した男の腕の中で眠っていたなんて。 首元のサファイアが、冷たい異物となって鎖骨に食い込んでいる。 引きちぎりたかった。けれど留め具は頑丈で、爪を立てても外れない。この首輪がある限り、私は彼の所有物であり続ける。その事実を突きつけられているようで、吐き気がした。 その時。 ピピッ、と電子音が静寂を裂いた。 ドアロックが解除される音。 息が止まる。 来る。 ドアが重々しく開き、廊下の薄明かりを背負って征也が入ってきた。 手にはカードキー。彼は部屋の惨状――散らばった書類と、蒼ざめた私――を一瞥しても、表情ひとつ変えない。 背手でドアを閉める。 カチャリ。再び密室が出来上がる音が、心臓を雑巾絞りのように締め上げた。「……莉子」 名前を呼ばれる。 いつもなら、その低い声だけで胸が跳ねたはずなの







